社会人になって2ヶ月が経過しました。ここらで決意的なものをダラダラと記していこうと思います。
どうしてこのタイミングなのかというと、4月から始まった新人研修が終了し、6月に配属先が決定したからです。これからはいよいよ職場の先輩・上司の方々と上手くやっていかなかればならないわけです。
目次
配属先はいくつ目かに希望した部署
私が勤めているのはBtoBがメインのメーカーで、職種は技術系です。大学では一応、機械工学を学んでいたので、製品の設計を担当する事になります。
弊社が世に出している製品のジャンルは様々で、おおよそ製品毎に部署も分かれています。なので「コレがつくりたい!」と熱い思いを持って入社してきた新人は、配属先が発表するまでドキドキしていたわけです。
私はどうだったかというと、一応希望していた品目の内の一つには入っていました。これについては後述します。
もちろん中には希望通りの配属が叶わなかった同期もいて、直後はどう声を掛けたら良いのかわからなかったですね。もちろん最初に入った部署に退職まで所属するわけではないですし、もっと言えば定年まで同じ会社に所属し続けるかどうかもわかりませんし。
というわけで、皆それぞれの思いを持ってそれぞれの職場に赴くのです。
大学受験の失敗がコンプレックスだった。
いきなり話が変わるんですけど、今までの人生における最大の汚点は間違いなく「大学受験の失敗」です。学歴コンプレックスってやつです。これは完全に自分が悪いです。県内でも屈指の進学校だった高校に難なく入学できてしまったせいで、油断し過ぎました。進学校とはいえど、所詮は公立高校だったので試験は楽だったんですよね。
その驕りから真面目に勉学に励まなかったせいで、現役ではどこにも受からなかったです。そんな結果になる事は自分ではわかりきっていたのですが、プライドだけは高かった私はものすごくショックでした。母親が勝手に抱いていた期待にもプレッシャーを感じていましたし。
県下では知らない人はいないような高校だったので、両親、特に母は親戚や友人たちに触れ回ってたみたいです。
で、結局2度目の大学受験も失敗するわけなのですが、その際、母親が自分の妹に私の結果をメール送信していました。この時にチラッと見えたiPhoneの画面に浮き出た
「マサヒデは全部ダメでした。心が折れそうです。」
の文字は今も鮮明に脳裏に焼き付いています。
2浪したわけではなくて、流石にどこにも受かっていないのはマズいだろうということで受験していた滑り止めの大学に、とりあえず進学したのでした。
進学した大学の事は、私は今でもFラン大学だと思っています。
そんな負い目から、高校時代の友人たちとは現在も連絡を取っていないです。中学の知人にも合わせる顔がありません。
病名こそ付かなかったけれど、ほとんどパニック障害だった。
東京の予備校での浪人生活を始めた頃からの話なんですけど、受験の失敗のショックで精神的に落ち込んでいました。それは生活にも若干支障が出ていて。具体的には満員電車に乗れなくなりました。
ある日、遅延が発生して普段よりも混雑していた車内で急に動悸がして。と思ったら圧死するんじゃないかと恐怖し、冷や汗と足の震えが止まらなくなりました。次の駅で降りて駅員室で休ませてもらい、その日は休みました。
それ以来、電車に乗るのが怖くて辛かったです。予期不安のような感じですね。それでも予備校には通わなければならず、始発の出ている駅で乗って座るため、本来よりも40分以上前の電車に乗って予備校に通ってました。
座ってパーソナルスペースを確保しても、次々に乗り込んでくる乗客に毎朝怯えていました。なので、予備校に着く頃には既に疲れ果てていました。気付かれないように眠る技術が培われたのはこの時でしたね。
このままではダメだ、と予備校が雇っていた心理カウンセラーを訪ねた事もあったのですが、臨床心理士との相性が悪かったため、途中で行くのをやめました。
で、大学生活が始まった頃も結構精神的に脆かったです。電車への恐怖は相変わらずでしたし、講義中もしょっちゅう具合が悪くなりました。なので、出入り口付近が私の定席となりました。気分が悪くなったらすぐに退出できるようにするためです。
この頃は本当にひどくて、好きだった映画館に行っても大音量で響く重低音でも動悸が起きてしまい、映画も満足に観ることができませんでした。
これはホントにマズいな、と大学の学生相談室の扉を叩きました。ここではカウンセラーさんと認知療法的な手法で、少しずつ不安を取っ払っていきました。
不安を感じても深呼吸して治まるなら大丈夫だし、別に動悸で死ぬわけではない。
ということを確認して、少しずつ普通の人の生活に合わせるようになっていきました。
今でこそライブハウスにも気軽に行くようにはなりましたが、人混みが苦手なことには代わりはなく、毎回多少の不安は抱いています。それでも、2015年のNegicco@Heaven’s Rock さいたま新都心のような大混雑のライブに行けるようになるなんて、当時の私には考えられないことでした。
相談室のカウンセラーとは今回はウマがあったので、進路の事、恋愛の事などを相談し、結局大学院を修了するまで約6年間通い続けましたね。
目標を立てるのが嫌いだった
目標って、立てっぱなしでは意味がないというのが一番つらいところだなあと思っています。
例えば学生の頃に誰もが考える、「進路はどうするのか」という事について。
私の場合は幼い頃から音楽が好きだったので、漠然と音楽に携わる事ができたら面白いかなあとは思っていました。そして高校は進学校、しかも男子高だった事もあり、なんとなく理系に進んだ(私の母校の文理の割合はだいたい7:3でした)私は、理系で音楽に関係する学問を少し調べました。
すると、地方大学だったり難関大学に、興味を持てそうな研究をやっている研究室があることがわかりました。
この時にそれを目標に頑張っていければ良かったのかもしれないのですが、私の頭に浮かんだのは
「目標を立ててしまったらそれに向かって頑張らないといけないわけだけど、私には頑張れる自信がない」
という事でした。高校受験は一応成功したわけだけど、その先も上手くいくとはどうしても思えなくて。なので、大学受験についても
「特にやりたい事がなかったから適当にやったらこうなった」
と思い込むようにしていました。でも、これって乱暴に言ってしまえば
「やればできるけどあえてやらない」
みたいな厨二的な最悪なスタンスですよね。加えて相変わらずプライドだけは高かったです。そんなわけで、周りからは適当に生きているように見えたかもしれませんが、内心では常に
「こんなはずじゃなかった」
って思ってました。
実は就活も序盤はそんな考えで臨んでいました。当然上手くいくはずもなくて、ある程度は真剣に取り組んだ結果、今の会社から内定を頂きました。
気づけば夢は叶いかけていた。
実は今私が働いている会社、音楽関係の事業もやっているんですよね。残念ながら、私自身が所属している部署はあまり関係のない仕事をしていますけど。なので、ドンピシャではないのですが、学生の頃に抱いた夢のようなものに近いところにいます。
ここまで散々脱線しながら色々なことを書いてきましたけれど、書きたかった事は「自分の気づかない間に自分っていうのは結構頑張ってくれているんだなあ」という事かもしれないです。
ブレブレだと思えていた自分の芯のようなものは実は一貫していて、知らぬ間にまっすぐと突き進んでいる気がします。もちろん短い期間でみればウジウジ悩み、立ち止まったり戻ったりしてきましたけれど。
まだまだ本格的に社会人を始めて間もないので今後どうなっていくのかは分かりません。未だに学歴コンプレックスからは抜け出せていないですし、多分これは一生付いて回ります。
その他にもコンプレックスの塊みたいな私ですが、それでも少しくらいは認めてやっても良いのかなって思える瞬間が時々訪れています。この先、こういった瞬間が少しずつでもいいから増えたら良いなあと思いながら、明日の出社に備えてサッサと就寝するのです。
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